愛しいものを夏の日に喩えるのだと、とある賢者は言った。
あれは確か満月の晩だった。訪れていた川の辺りにやがてゆうらりと姿を現した厄災が、やはり惚れ惚れするほど綺麗だったのを覚えている。向こう岸の街ひとつ覆うような息を呑む大きさ。地平に登った直後というのは大気の歪みで最も天体の大きく見える時だが、それを考慮した上でも唯一無二の輝きだった。 その月のずっと下方、対岸にふと目を惹かれた。ぽつ、ぽつと灯る光がある。妙に各々高さが揃っていて正体が気になったので水面を渡った。
薄闇の向こうまで一面にずっと広がっている。それは見渡す限りの月見草の群落だった。ゆっくりと花開き次々と川影の中に浮かび上がる。懸命に上を見上げるその咲き方は、月を慕う仕草だった。
光の速度で月までは1秒。 この月見草が淡い真珠色を溢して1秒、月に届く。一つ、またーつと届くその間隔は心音と重なって、まるで花の息遣いを見てとれるようだ。光の速度などやたら現実味のない尺度だと思っていたが、こう見るととなかなか魅力的なように思えた。
徐々に蕊の匂いが張りつめ、ついに満開になった。 咲き揃った花がいっせいに月を見上げる。透ける花びらが揺れて、結晶のぶつかるような幻聴がした。 月見草を見るのは別段初めてではない。毎年冬を越すと川縁に真っ直ぐ茎を張り、葉と蕾をつけていた。そして初夏の頃、薄羽の蝶が翅を開くように月色の花を咲かせる。その後2ヶ月ほど、月の昇る頃に毎晩咲きつづける。
見知った光景のはずだ。なのにどうしてこの日はこうも目を奪われたのだろう?

あの後、この月見草は根からひいて持ち帰ることに決めた。 そうして両手いっぱいにこの花を抱えた気持ちは喜ばしいものだった。慕われるより恐れられることの方が多い厄災のことだ。同志を見つけたような気持ちだったのだと思う。無言でひたむきな、またひとつの厄災を愛するもの。 抱えた花の月の色が首筋に滲むような幸福を感じていた。 外気にさらされた根からは葡萄酒の香りがしていて、それもまたいい気分だった。
この月見草はそれから数年間、天文台の側で冬を越し夏にはほのぼのと花びらを光らせた。
それで、そう。冒頭の賢者の言葉だ。 何千回と過ごした夏の日についてこの頃考え巡らせていたが、喩えるならだから、きっとこんな夜のことと思いたい。