厄災のために齷齪費用を貯めようやく建てたこの天文台に入り浸って、そろそろ半世紀に届く頃だ。

日がな月を眺めては文献を読み、論文を書いていたが今日は生憎の新月のようだった。日が暮れると角灯の明かりがなければ何も見えないほど手元が暗くなってしまい月の不在を知らしめられる。

論文などは鬱々として書くものではない。ペンを放り天文台の外へでた。この丘は切り立って海を臨む。西向きにひらけた沖には小舟がかかって、崖下からの波濤が空気を震わしていた。  夏のうるんだ夜気が心地よく、星を仰ぎ見ながら海の方へと向かった。  天の河の真ん中に一際明るい星がみっつ。左から回って、アリデッド、リュラ、カプトラム。

月ない夜の星々は明るい。波打ち際まで近づいて、打ち寄せる影を追った。海はこの夜の色だ。そうして目線を上げた先の水平線上に天の河は溶け出していた。  潮風に靡く髪を抑えて靴を脱ぐ。波を分けるように足を踏み入れて裾から濡れていった。ふんだんになったシャツが波に遊び、肌に触れる水が快い。  頭から潜って波間を目指した。海底は白い砂浜で、透き通った水影が落ちていた。

溢れ落ちんばかりの、星々、銀河。  海を背に浮かべば瞳が生まれ変わりそうなほどの夜空を見る。この海にも深く映しとられたそれは波にきらめいて揺られていた。  夏の夜空は四季の中で最も鮮やかだと思う。濃い藍の天頂には青白いリュラ、西の空には金色のコラリウムと青いリタがかかり、南の地平近くにスコーピオの心臓が紅々と燃えている。  丘で仰ぎ見た3つの星も目を惹く清々しさだ。この星群は人によってこの3つで組とするものと、カプトラムとリュラで対とするものに分かれる。どちらかと言われれば後者が好きだった。天の河を東西に挟むこのふたつを引き裂かれた恋人に喩える文化圏があると知ってからだ。より澄明な光を放つリュラが姫、硬く煌めく方が皇子。

見れば見るほど月のない夜もこんなに明るいものかと感嘆する。 そうして前に見た水影の正体を知った。あれは、天の河の光でできた影だったのだ。地表に影を生じさせる天物体は太陽、厄災、流星のみだと思っていたがどうやら違ったようだ。月への恋で盲目になっていたような心地だ。これほどまで全天に広く輝くものをすっかり見落としていたらしい。

ずぶ濡れになった髪や服を絞り砂浜を歩く。手をひらめかせ簡単に乾かしながら天文台を目指した。  随分と長く浸っていたからか、夜の色が睫に染みついて、手の筋に海水が流れているような気がする。あの景色が瞳から流れ込んできたようだった。  そうして体内を巡る星々の光で、生まれ変わる虹彩のことを考えていた。